昭和五十七年十月十一日 朝の御理解


 御理解第四十節 「重い物を負うておるか担いでおれば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勤め勤めするがよい」


 信心のない人から見ると、信心を頂いておる者は、ああとてもあんな真似は出来んと言う感じが致しますでしょうね。皆さんのようにこうして朝参りを続けられる方達の場合なんか、取り分けそうだとね。信心のない人が見たら、「とても朝起きだけでもあげなことは出来ん」「そりゃもうお賽銭だけでも私だん出来ん」と言う人はだからやっぱり信心は重荷だとこう思ってるわけですよね。
 けども、信心によって心が助かって行く。万事にご都合お繰り合わせを頂いてくるね。信心の教えが言うならば、昨日の君子自重じゃないですけれどね。重たいものとして自分の生活の中に入ってくる。合楽の信心を頂いておる合楽の信奉者としての、まあ言うならば看板を掲げておると思うとね。うかつなことは出来ん。これはやっぱり信心の重荷だと思いますね。
 けれども私は、そういう意味での重荷というか、そういう意味においての、昨日の御理解で言うと「君子自重」ですね。はなからなければ本当の教祖が教え言おうとしておられるところを、私は思うんですけれども、神様を信ずるからどんな場合であっても楽だと。 またの御理解にね、「金や木は…」「神を杖につけば楽じゃ」とおっしゃる。私共は神を杖につけば楽じゃというところまで信心が育って参りますから、信心はいわゆるみやすいが良いのである。いわゆる家業を勤め勤め出来るのであるということになりますよね。 ですから、やはり信心を頂いておるから、やはりあのう自重しなければならないところがある。教えが重々しく自分の生活の中に入ってくるからね。金光教の御信心頂いておるから、ここを守りもしなきゃならない。頂いても行かんならんという場合、やっぱ信心を重いものと感じるね。
 けども、その重いものがいよいよ言うなら軽いものになる。その重いものがいよいよ、いわゆる神を杖につけば楽と言うふうな、神様を信じて疑わない生活に入って行く。その世界がね、言わば神を杖につけば楽じゃであり、または別に重い物を持っておるわけじゃないのだからね。まあいわゆる神様を信ずるというその心だけがいよいよ強うなって行くのですから、こんな楽な、またこんな有難い、またこんなおかげの受けられる世界はないと思うんですね。
 だからこの御教えは色々に頂けると思うんです。そう堅苦しゅう信心の教えに縛られるような行き方をしなくてもと言うふうにも頂けますしね。段々そこにいわゆる君子、言わば真の道を行く人は真の人にならなきゃならん。その努力であり精進が、やはり重い物を感ずる場合もあるね。
 その感じるその向こうにです。成程神を杖につけば楽じゃ。信心のない人たちでは分からない世界。喜びの世界があるんだと。そういう世界に入って初めて、信心というものは楽な有難い、「信心はみやすいものじゃが」とも言えることになるのじゃないでしょうかね。
 私は最近、昨日幹三郎が前講でお話をしておりましたように、「心行は神行」と言うことを頂いて、まあ今はこれに本当に撤して、恐らくはこれが私の生涯これに撤して行くことでしょうね。けれども、心の行は神の行というわけですけども。なら神行と心行は一緒じゃないのですね。
 この辺にまあ言うならば今日の御理解で言うと、重みを感じますですね。心行さえしとれば神の行かと言うと、そうじゃない。その心の行ですね。いわゆるその心行が神の行につながって行くような行があるんですね。だから心行に撤した向こうに、言わば神行を改めて感じるのですね。
 お道の信奉者の全部が、「総生神を目指す」と言うふうに言われますがね。またそれを事実信心の上で頂こうとするならば、やはり神へ向かうというのですから、神へ向かう神になる修行とはどういう修行だろう。それをいよいよ煎じ詰めて行くと、心行になってくるのですね。しかも、その心行とは神様を信じて疑わない。いや神様を信ずればこそ出来る修行ということになりますね。
 心行とは神様を信ずるからこそ出来る修行なんです。ああこれはまあいわゆる心行に撤して、神の行、神行に入って行かなきゃならない。生神への精進はそれだということになります時に、いよいよ信心はいわゆる何と言うでしょうか、重い物を持っておるのじゃないからね。重い物を担いでおったりするのじゃないから、いわゆる神様を信ずる生活ね。神様を信ずるから出来る修行に入ったらね、成程重たい物を持つこともなからなければ、まあ楽なことなんじゃないでしょうか。
 昔、ある大変御比礼の立つ教会でしたが、もう大祭前一週間くらい前になると、もう口の中が荒れてしまってね。いわゆる逆上せてしまう。もう「大祭大祭、大祭大祭」と言うて、もうお粗末ご無礼がないように手落ちがないようにと言うて、まあそれだけ熱心な先生なんです。だから御比礼もやっぱ立つんですけどもね。
 私共もやっぱそんな感じの時代がございましたね。もう大祭ともなると、もうさあ親先生が見える。まあその見えて手落ちがないように、お粗末ご無礼がないようにともう思うだけでも、もう本当逆上せるくらいにあった時代もございますけれども。最近段々おかげを頂いて、さあ十五年の記念祭と言やあ、まあ大変なお祭ですから、費用だけでも数千万円かかるんです。もうあれやらこれやらともう皆さんがして下さる。
 昨日信徒会長が、「もう今度の記念祭くらい皆さんの手が揃うて、もうとにかく盛り上がってきております」ということを、昨日お祭前にお届けをしておりましたが。「本当にご苦労さんですね」と言わば言っておるだけでいいんですから、こんな楽なことはないでしょうが。
 「はああれはしとるの、あれ忘れとりゃせんの、あそこはどげんなっとるの」ちずうっと頭に考えなんなら、晩も眠れんごとある。記念祭記念祭という。もうこれは私の立場でですよ。
 ところがおかげを頂いて、なら心にかかることがないじゃないけれども、さあここが心行なんだね。心行から神行へ移って行く過程であると思いますから、それを言わんですむ。言わんですんでおりゃ、言うた以上の働きやらおかげやらが現われて行っておるということになるんですよね。
 ですから、この御教えはもう言うならピンからキリまでという言葉があるですが、ピンからキリまでの物が頂ける。「まあ信心しよんなさい。本当におかげ頂きますが」と言うような程度で、「そんなに難しいことじゃないですよ」というような感じで頂くかと思うと、なら心行から神行に入って行くというかね、神行に入って行ったらこんな楽なことはない。神様を信ずる力がいよいよ頂けてくるという。それこそ言わんですむ。思わんですむといったようなね世界があるんです。そこが私は神行、神の行だということね。
 ならこれは誰だって、だから金光様の御信心を頂いとる者は、「総生神を目指す」と言われるのですから、先ず合楽で言われる心行とは、この頃少年少女会の代表が、何か敬親会の時に、何かこう祝い文を読んでおりました中に、心行とはということを言ってるんです。「心行とは履物を揃えることです。心行とはトイレに行ってトイレの紙を三角に折ることです」と言ってました。
 だから心行をそういうふうに表現致しますからね。あの、それだけじゃないのだけれども、例えば履物一つ揃えるでもですね。自分がまあきちっと者である。そうしな気がすまんというのではなくてです。後から入って来る人が気持ちがいいだろうと思うから、履物を揃える。おトイレでも使いっぱなしじゃなくて、また後はきれいにしておったり、言うならば使い紙一つでも、きちっと後の方が取り良いようにさしてもらう。後の人が喜ぶことのためにする。心を使うのが心行だとね。
 お風呂入ったら、石鹸の使い方一つの上にでも、タオル一本の使い方にでも心行があるんだよと。使いっぱなしにして、こう石鹸の泡が風呂場一杯にある。気持ちが悪い。それをきれいにこうやって濯ぎ上げて、しかもタオルはきちっとこう掛けてある。後から入る人が気持ちがいいね。そういう願いを心に使うことが心行だと言うふうに。だからこれは心行は誰でも出来るのである。
 けどもその心行が今度は神行ということになる。神の行ということになるとね。もういよいよ神様に入って行くことのための修行ですからね。やっぱそこには重みを感じる。言いたいけれども言わん、こうしたいけどもしないといったようなとこに入って行って、こうしないですむ、言わんですむ、神様の働きというものはこんなにも素晴らしいんだと言うことが段々分かってくるようになると、いよいよその心行が、まあ言うならおかげと言うならば香るようなおかげにもつながってくるわけであるね。ですから、やはり心行なら心行と心に掛けると言うだけでも、やっぱりある意味での重みを感じます。
 信心頂いておるから、ここの所を実行するんだと。真の人を目指すからこそ、いわゆる君子自重さしてもらうんだとね。そしてそこを通って、いわゆるその教えが身に付いてくるというか、神様を信ずる力が段々出来てくる。そこに初めて、「神を杖につけば楽じゃ」と。
 ああ金やら物やらではね、金あてにしとったけれどもあてにならなっかたりね。あの人だけはと、こう、信用して頼りにしとったけども、その人がぽっくり亡くなったといったようなことでね。そこにまあ空なものを感じるようになる。成程、頼りになるものは自分の力でも腕でも人でも物でも金でもないんだと。頼りになるものは神様お一人ということになってくる時に、神を杖につけばいよいよ楽だと言うね世界があるんですね。
 そこになってくる時に、もういよいよね、重たい物を持っておるとか、担いでおるといったようなことではない。これは教祖様が体験なさっておられるお言葉でありますね。教祖自身もこんなに楽なことはない。神様を信じて疑わない生活こそが、本当に楽な生き方である。人間の幸福の条件が足ろうて来る一番素晴らしい生き方だということをご自身が身を以て体験しておられる御教えなんです。 だから、頂きようによっては、今言う「信心ちはそげん難しいもんじゃないですよ、やってご覧なさい」というような所から入って、段々信心の教えというものが、言わば重みを感じる。信者であるから、真の人を目指しておるんだからと。言うならば今までのわがまま放題の在り方の中から、まあ道に間違った、それに生き方の中から、そんなことではいけないと真の道をひた進みに進ませてもらう時にはやっぱり、やっぱ自重しとかんと、なかなか出来ん重みを感ずるわけね。
 だからその重みを感じる、そのそこから神の体験があるね。こういう心掛けになれば、こうすれば神様はこういう働きをして下さる。そこに心行もせずにおれなくなってくる。その心掛けが段々おかげを頂いて、ははあ神になる修行とはこういうことなんだなと、言うなら神行に移って行くね。そういう一つの道程というか、段階を追いながら、お互いの信心を進めて行かないと、いわゆる「学者が年を取っても眼鏡を掛けてでも本を読むようなものであろうぞい」「一生が修行」ということにならない。一生の修行ということ、そのこと自体がもう修行じゃない。それが有難いのだ。それが楽しいのだという修行に段々変わって来なきゃならん。
 私はもう本当に素晴らしい言葉だな。心行から神行へ移って行く。お道の信心さして頂くなら、まずこの心行に撤することね。そしてその心行が神の行に移って行く。だから心行は神の行と同じじゃないのです。心行から移って行くのです神行にね。その心行に取り組ませて頂くようになる時、初めて生神を目指しての真の人。いわゆる神人と。神人と言われますね。そういうおかげの世界があるということでございます。
 信心を、「なかなか信心な出来ん」と信心のない人は申します。「はああなたごたる真似は出来ん。とても金もそげん要るし、時間も掛かるし、とっても特に朝参りなんかはもういよいよ出来ん」と言う人にはやっぱり信心は重いものですよね。
 けれどもまあ様々なことからご縁を頂いて、信心の道が段々分かってくるようになると、信心というものは重い物じゃない。重い物を担いだりね、持ったりしておるようなものではない。信心がいわゆる血肉になるということなんですよね。そこまで信心を進めんとやはり信心がやはりおっくうになりますね。
 信心が有難いというものね。信心がね、おかげを頂けば有難いというのじゃなくて、信心が有難いということになって参りますと、信心は持ち荷になるものではないというところまで信心を進めて行きたいですね。
どうぞ。